今、まさにそこに在る危機
今、ある場所で虐殺が起こっているとしよう。
あるいは、自らの子孫を残す手段が絶たれ、歴史上から抹殺されようとしているとしよう。
誇るべき世界に冠たる文化、文明が、くだらない理由で踏み潰されているとしよう。
思想の押し付けを、唾棄すべき「教育」などという言葉で美化されているとしよう。

それを見逃してよいのだろうか。
あるいは、見過ごしていいのだろうか。
もっといえば、見ぬ振りをしていいのだろうか。




そもそも、「教育」などという言葉が私は大っ嫌いだ。
いかにも、
「教える私は正しく、教えられるあなたは馬鹿、もしくは間違っている」
という、完全否定から始まるこの上から目線には、吐き気を覚える。
関係ないが、自分の会社でも、朝礼でなんか変な会社の社訓みたいなのを読まされるが、あれは私は唾を吐く一歩手前で我慢して、読み続けている。
なんというか、金をもうけるためには、こうしろよ、と洗脳されている気分だ。

金、金、金。

金の亡者共め!!

こうやって毎朝読む社訓の光景は、傍から見たら、オウム真理教となんら変わりが無い。
何のことは無い。毎朝私たちは、
「修行するぞ、修行するぞ、修行するぞ」
の変わりに、
「金を稼ぐぞ、金を稼ぐぞ、金を稼ぐぞ」
と叫んでいるだけなのだ。





とまあ、一部愚痴が出てしまったが、ともかく思想信条は何者にも犯せざるべき事柄である。
まあ、頭が固いとか言われたら、なんともいえないところかもしれないが……

しかし、少なくとも我々は、生活、生き様、文化、文明に誇りを持ってしかるべきであり、何者にも踏みにじられるべきではなく、そして踏みにじるべきでもない。

踏みにじるような障害があるならば、それは排除しなければならない。
それが今まさにそこにある危機として存在するならば。

今まさにそこに在る危機とは、通常身近な人に起きる場合だと思う。
例えば、肉親あるいは配偶者が聞きに晒されたとき、私たちは立ち上がる。
それこそ命を賭けて。
しかしそれが数千キロ離れている人となると、とたんに他人事になってしまう。
それはしかし、真っ正直に考えると、正しいことだろうか。
我々は明確な区別は出来るのだろうか。
我が子が危険に晒されようとしている場合と、他人の子が危険に晒されている場合で、
倫理的には我が子を優先するのだろうが、理論的にはどちらが正しいと言えるのだろうか。
否、それは出来ない。




私たちは常日頃より、なんらかの理不尽な扱いを受けたことはあるだろう。
世間でよく聞く、特定の政治家や特定の公務員による贈収賄、不正。
そしてごく一部の人間のために施行され、ごく一部の人間のみが利益を享受するような不可解な法律改正。
それは、私たちの住むこの社会が不平等で、理不尽なものにまみれていることを示し、
そして私たちはその事を知っており、
それに対する憤慨を例外なくもっている。

それならば、この数千キロ離れいている場所で虐殺されている人達の懊悩が理解できないことは無い。
理不尽な虐殺。
踏みにじらる人権。
力により押さえつけられ、どうしようも出来ないもどかしさ、
見えぬ明日。

少しばかりも共感を得ないだろうか。
私は何となく共感を覚えた。




しかし、それでも私は行動が出来ない事に気付いている。
そう、憤慨しても、その気持ちを実際の行動に移せない。
また、うつした所で、大海に投じる一石のごとく、なんの役にも立たないのだろうとさえ、諦めのふしさえある。
チベットへ行く事で、生活の糧を失い、明日を失い、未来を失い、そして命を失う。
そこまでやる度胸が私にあるのか?
あ、チベット言っちゃった。まあいいか。


そう、結局出来ないのだ。
所詮は負け犬の遠吠えのごとく、私の限界をまざまざと見せ付けるだけなのだ。


世の中とは残酷だ。
結局のところ、惰性でしか物事は動いていかない。
感情だけ先走っても、行動が伴わなければ、ただの遠吠えに過ぎない。
そんな感じが、世を覆っている。

今まさに迫る危機のみ、私たちは行動を起こし、将来あるいは他の人に迫る危機に対しては結構無防備なところがあるのは、否めないと思う。





そうして、私は問題を一つ一つ、ほったらかしにして、生き続けるのだろう。



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