人間の歴史は、争いの記録といっても過言ではない。
ソ連が崩壊し、それまでの異なる政治イデオロギー勢力同士の対立構図は崩れ去った。
それまでは戦争の原因は、社会主義国家群と民主主義国家を標榜する国家群との縄張り争いのようなものであった。いや、ソ連とアメリカの対立構図であったと言うのが最も正確なのかもしれない。
ある意味、至極単純明快であったように見える。
第二次大戦前のヴェルサイユ体制においては、収奪の対象となる植民地を巡る争いも、第二次大戦の一因となっている事に注目すべき点がある。
第二次大戦は、いわゆる植民地を持つものと持たざるもの同士の利権の奪い合いであった。
歴史の教科書に良く出る、ドイツは悪い、日本は悪い、というのは、歴史的に見れば誤りである。究極的な悪と言うのは、一般的に存在しない。
あえていうなれば、人間は悪だ、というのが最も正しいといえる。
人の性が、利権の奪い合いを起こすものであるという事が正しいと仮定するならば、戦争とは利権の奪い合いという戦いの中での手段の一つであることが言える。
もちろん、その戦いには戦争以外の手段もあるが、究極的に相手から物を奪うという行為の背後には、歴然とした武力の裏づけが必要である。
よって、仮定条件が正しいとすると、戦争は各種団体における利益の奪い合いの一面が見え隠れする。
しかしながら、戦争は非常にリスキーである。
勝てば良いが、負けた場合は勝者にいいようにされてしまう。
堅実な人間であれば、まずは避けるべき事態であるという認識は当然だ。
例を上げると、
自分の正面に、自分の財布をねらう人間がおり、自分も相手もナイフを持っていると仮定しよう。
相手はナイフで威嚇しながら財布をよこせと言っている。
では、自分はそのときにどうすべきか?
1.おとなしく財布を渡す。
2.自分の持っているナイフを誇示し、相手の行為がリスキーであることをわからせる。
3.果敢に自分のナイフを相手に突き立てる。
4.逃げて助けを求める。
などが考えられる。
もちろん、私としては自分の命が大事なので、逃げて助けを求めるのを選ぶだろう。
もし、自分に格闘の技術があり、相手を確実に仕留める事が出来るなら、2番や3番の選択もありえるだろう。
しかしながら、自分の命を懸けてまで財布を守らないといけないのか?といわれると、たとえ95%の確率で相手を圧倒できるとわかっていても、Noと言ってしまうのが普通だ。
何が言いたいかというと、まあ人間は普通戦争は避けるように出来ているということだ。
だがしかし、それでも戦争が起こってしまうのは何故だろうか?
それは命を懸けてまでも欲しいと思う利権がある場合だろう。
そして、その命を懸けるのは戦争を起こす当事者ではなく、他人なのでお構い無しの場合であるだろう。
ということが正しいならば、人間は利権のために命を懸けて戦争をする、ということは正しい。
個としての人間は善良なれど、集団としてみた人間は凶暴であるというのは、こう言った理由に違いない。
じゃあ全ての人が幸せになるにはどうすべきか?
おそらくそれの答えはないだろう。
そしてそれが人間の限界であるといえる。
お釈迦様の言う、すべての煩悩を捨て解脱せよ、というのは、万人には難しいものである。
と、秋の夜長にふと思った。
ソ連が崩壊し、それまでの異なる政治イデオロギー勢力同士の対立構図は崩れ去った。
それまでは戦争の原因は、社会主義国家群と民主主義国家を標榜する国家群との縄張り争いのようなものであった。いや、ソ連とアメリカの対立構図であったと言うのが最も正確なのかもしれない。
ある意味、至極単純明快であったように見える。
第二次大戦前のヴェルサイユ体制においては、収奪の対象となる植民地を巡る争いも、第二次大戦の一因となっている事に注目すべき点がある。
第二次大戦は、いわゆる植民地を持つものと持たざるもの同士の利権の奪い合いであった。
歴史の教科書に良く出る、ドイツは悪い、日本は悪い、というのは、歴史的に見れば誤りである。究極的な悪と言うのは、一般的に存在しない。
あえていうなれば、人間は悪だ、というのが最も正しいといえる。
人の性が、利権の奪い合いを起こすものであるという事が正しいと仮定するならば、戦争とは利権の奪い合いという戦いの中での手段の一つであることが言える。
もちろん、その戦いには戦争以外の手段もあるが、究極的に相手から物を奪うという行為の背後には、歴然とした武力の裏づけが必要である。
よって、仮定条件が正しいとすると、戦争は各種団体における利益の奪い合いの一面が見え隠れする。
しかしながら、戦争は非常にリスキーである。
勝てば良いが、負けた場合は勝者にいいようにされてしまう。
堅実な人間であれば、まずは避けるべき事態であるという認識は当然だ。
例を上げると、
自分の正面に、自分の財布をねらう人間がおり、自分も相手もナイフを持っていると仮定しよう。
相手はナイフで威嚇しながら財布をよこせと言っている。
では、自分はそのときにどうすべきか?
1.おとなしく財布を渡す。
2.自分の持っているナイフを誇示し、相手の行為がリスキーであることをわからせる。
3.果敢に自分のナイフを相手に突き立てる。
4.逃げて助けを求める。
などが考えられる。
もちろん、私としては自分の命が大事なので、逃げて助けを求めるのを選ぶだろう。
もし、自分に格闘の技術があり、相手を確実に仕留める事が出来るなら、2番や3番の選択もありえるだろう。
しかしながら、自分の命を懸けてまで財布を守らないといけないのか?といわれると、たとえ95%の確率で相手を圧倒できるとわかっていても、Noと言ってしまうのが普通だ。
何が言いたいかというと、まあ人間は普通戦争は避けるように出来ているということだ。
だがしかし、それでも戦争が起こってしまうのは何故だろうか?
それは命を懸けてまでも欲しいと思う利権がある場合だろう。
そして、その命を懸けるのは戦争を起こす当事者ではなく、他人なのでお構い無しの場合であるだろう。
ということが正しいならば、人間は利権のために命を懸けて戦争をする、ということは正しい。
個としての人間は善良なれど、集団としてみた人間は凶暴であるというのは、こう言った理由に違いない。
じゃあ全ての人が幸せになるにはどうすべきか?
おそらくそれの答えはないだろう。
そしてそれが人間の限界であるといえる。
お釈迦様の言う、すべての煩悩を捨て解脱せよ、というのは、万人には難しいものである。
と、秋の夜長にふと思った。
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