フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)



私は建築学にはそれほど詳しくなく、ル・コルビュジエくらいしか知らないが、三大巨匠と呼ばれるうちの一人が、フランク・ロイド・ライトと呼ばれる人のようだ。
上の動画は、日本にあるという、帝国ホテルロビーだそうだ。




次のは、落水荘だそうだ。とても美しい…

そういえば、昔は建築家を目指していた時期もあったなと、しみじみと思い出させられる…


古来、政(まつりごと)とは祭り事、すなわち祭祀を顕す。
つまり、神へのお願いをすることである。
では、お願い事とは一体何か?
それは、災害が起きませんように、平和でありますようにと、祈りを捧げることに他ならない。

すなわち、人の上に立つ君主たるものの成すべきこととして、その民の安寧を計らなければ、いずれ人心が離れてしまうと言う事が、歴史的な事実として存在する。
人の上に立つとは、古来より人のために働くべき存在であると定められている。
人を見下し、搾取し、虫けらのように扱った君主や政権は、やがて人により倒される。
これを天命と呼ぶ。

まあ簡単に言えば、政治とは災害が起きないよう社会資本を整備する事が大きな仕事の一つである。
河川が氾濫して、周辺住民の財産あるいは生命が失われないように堤防を築き、遊水地を作ったり、はたまた街を区画整備して商業が発展しやすいようにしたり。
それはそれは、とても地道でだれからも褒められることは無く、あまつさえ無駄金使いなどと批判を浴びがちだが、その根底にあるものを見失えば、やがて大きな災害に対して恐ろしい結果を招く。

古代から近代にかけては、この事をきちんと行えば、その国は大いに発展する図式となっていた。
現代になってからもそれは基本原則としては大きく変わらない。



そんな社会資本の一つである、ダムを今回は紹介しよう。
最近は脱ダムなど、悪の建造物としての評価しか受けない建造物であるが、その姿はあまりにも見るものを圧倒させる。



ダムには、様々な機能が備わっている。
その中でも人の暮らしに最も関わっている機能として、以下のものがあげられる。
それは河川の水量を調節し、飲料水、農業用水、工業用水などが定量的に確保できるようにすること。
この定量的に確保することというのが、かなりミソなのである。

要は、飲み水はいつもこれだけ確保したい。確保できなかったら、水道は止まる。
農業用水は、稲作時にはこれだけ確保したい。確保できなかったら、米が作れない。
工業用水もいつもこれだけは確保したい。確保できなかったら当社に多大な損害が云々かんぬん…
などなど、水は利権の固まりだ。

これがダムが無かったら…
おそろしい水を巡った争いがおきるであろうことは、容易に想像できる。
実際、水利権というのは今でもドロドロとした攻防が、そこかしこで起きているのだ!

それを微妙に調整するのがダムや、堰などの社会資本構造物だ!
そう、すべては物事を円滑にするため、そして災害を防止するため、それらは存在する。


まあ、世の中は腐れているが、根本的には利害の調整という妥協の世界であるということだ。
綺麗な世界など、世迷言に過ぎない。




habita67
なんとなく、かっこいい集合住宅を紹介するシリーズ。


モントリオールにあるという、habita67だ。



めちゃめちゃクールな外観。
って、解説になってないな…


芸術とは
気が付いたら、Le Corbusierの動画をyoutubeから毎日探しているような状態だ。
動画に映る彼の作品。
そこには何かを感じさせられる。



何かとは、それは「自由」だ。
構造物における常識的な構造部材。
日常よく見かけるビルディングとはかけ離れたデザイン。
それは正しく「自由」以外の何者でもない。
そしてそれは見るものを魅了し、捕らえて離さない。

そう、それは私ではとても考え付かないような常軌を逸脱した設計であり、とてもではないが常人とは思えない。
Le Corbusierって人は頭の中がおかしいのではないか??
などと思ってしまうほどだ。

しかし、こうして私は彼の作品を、日夜、捜し求めて、そして眺め続けている。
飽きることなく、ただ、その「自由さ」に惹かれながら…





こんな建物を自分で設計したいと思ってしまうのだが、私にははっきりとわかる。
それはとてつもない努力の上に築かれた、知識の結晶であり、またその感性を研ぎ澄まし続けた上に聳え立つ芸術性の塊であることを。
そして、私にはとても追いつけないほどの遥かな高みに、それはそびえ立つことを…




平和な日々
時はゆっくりと過ぎ去っていく。
それまでの変な閉塞感をそのまま置き去りにしながら。
耳に聞こえる久石譲の「Asian Dream Song」の軽やかな旋律が、とてもさわやかだ。





現実逃避…
過酷な現実から逃れるための心地よい調べは、私を夢の世界へと惹きつけさせる。
いっそ、このまま何もかもから逃げられたら、どれだけスッキリするだろうか。
いや、この音楽は、そんな事さえ忘れさせてくれる。


そうだ、京都に行こう。
きっと今頃の京都は、紅葉に満ち溢れているに違いない。
それは幻想的で、魅惑的で、感美的だと思う。
日がな一日、生臭い現実と向き合っているからこそ、京都という現実とは微妙に異なる世界に惹かれるのかもしれない。
年をとってわかったこと。
それは、人生とは退屈なれど、退屈の中にある何かを見つけることこそ、退屈にはならない方法である。



Casa Mila
何となくカッコいい建造物を紹介するシリーズ第二弾。
今回は、カサ・ミラだ。



かの有名なガウディ作の建築物だ。
パッと見では、個人的な趣味で作ったんだな…、とさえ思わせられるような風貌である。
あまりにもの前衛さに、ちょっと引いてしまうほどだ。

金と才能があれば、こんなものが出来るのだろう。
いまいち、この建物の素晴らしさというのが良くわからない。
なぜだろう??



Unité d'Habitation
カッコいい建造物を紹介するシリーズ第3弾。

全ての建築に興味がある人は、常識中の常識として知られている
「Unité d'Habitation」だ。
Le Corbusier(ル・コルヴュジエ)が、ある思想の元に作り出した歴史に名を残す集合住宅である。

「Unité d'Habitation」の正しい発音方法は、ユニテ・ダビタシオンだ。
第二外国語としてフランス語を習得した私にとっては、この発音など造作も無い。
ここで若干のフランス語講座。

フランス語は、基本的にローマ字読みで問題ない。
Uniteは、英語だとユナイトだが、
フランス読みではローマ字読みそのままに、ユニテ、だ。
超シンプル!

次に”h”は発音しない。
d'Habitationは、ダビタシオン、とそのままだ。
関係ないが、Honorはオナーと呼ぶに違いない。






この無機質なコンクリートの質感、とてもたまらない。
屋上のコンクリートだけの庭園も、この突き放し方が素晴らしく魅力的だ。
とても冷ややかで、温かみなどひとかけらも見当たらない。
そして環境問題?そんなの知ったことか!
と言わんばかりに、コンクリートのみである。


そしてピロティ(建物の一番下の、基礎のような柱部)。
これもまた堪らない。
飾りっ毛の無い、まるで砂漠を思わせるかのように殺風景。
それでいて、ギリシアのパルテノン神殿のように厳かな雰囲気。
そこに行って、圧倒されたい!
そう思ってしまうほどだ。



ル・コルビュジエにより近代建築の五原則が提唱されている。
1. ピロティ
2. 屋上庭園
3. 自由な平面
4. 独立骨組みによる水平連続窓
5. 自由な立面

私の住むマンションは、実はこのうちの二つを満たし、見かけはまるでユニテ・ダビタシオンだ。(1番と4番が合致)
おんぼろで、築30年は過ぎているが、まあそれなりに快適だ。
ただ、見てくれはかなり酷い。
なんつったって、雨水の垂れた痕跡が染みになって、建物全体を覆い、まるで崩れる寸前の汚い様相を呈しているのだから…

いい建物、いい住宅。
それはなかなか見つからないものでもある。


わが征くは星の大海
最近、銀河英雄伝説の小説を読み返したおかげか、久々に宇宙に興味が沸いて来た。
宇宙は良い。
昔から、私は宇宙が大好きだった。

アメリカやソ連の宇宙開発の子供向けの本を、何度も何度も見返したことか。
その遠大な計画に、子供心に大変うきうきしたものである。
年をとって知った事実である、この宇宙開発は大陸間弾道ミサイルの為だったという悲しい現実が目の前に今あったとしても、それはまぎれもなくロマンの世界だ。

私の宇宙感をさらに継ぎ足すものとして、もっとも大きな役割を果たしたのは、やはり銀河英雄伝説である。
略して銀英伝と呼ばれるこの小説はSFではあるものの、あくまでも主役を人間においた伝記物である。
得意なSFの設定をウリとするような小説とは大きく異なり、人間の策略や知力、あるいは英雄的な魅力を散りばめた、いわゆる三国志チックなものである。


銀英伝とEveOnlineとでは世界観が大きく異なるものの、まあ似たようなものであると思われる。


そして私は旅立つ。
我が征くは星の大海。
そして宇宙を我が手に…


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そよかぜ2号
手持ちのお金を見ると、どうやら一個上のクラスの船である、フリゲート艦が買えるようだった。
私は迷わずフリゲート艦を購入し、最初に与えられていた宇宙船を乗り捨てた。
そしてこのフリゲート艦に名前を与えた。

「そよかぜ2号」



なみそよぐ大海を渡る大烏のように。
優雅に、そして穏やかに。

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私は堀り続ける
私はただひたすら、鉱石を掘り続けた。
なにも考えず。
なにも求めず。

いや、何も求めないとは言いすぎた。
ともかく、私はひたすら無心に近い心持で、ひたすら堀り続けた。
まるで、すべての煩悩を超越した存在であるかのように。



何も考えなくて、ただひたすら堀り続けるだけというのは、ちょっと前までの私にとっては退屈極まりない事限り無しであると思っていたのであるが、何故か今はそれほど苦痛ではないような気もしないでもないような気がする。
おそらくあれだ、きっといろいろ考えることが面倒になったのだろう。
それに、実際は掘りながら別のことをすることが出来るというのも一番の良い点であるのかもしれない。



例えば、掘りながら文章書いたり、掘りながらブラウザで別のものを見ていたり。
そう、何もゲーム画面に集中する必要は無い。
適当に何かをしながらで良い。
そういういい加減さ。昔流行った言葉で言う所の「ファジー」だ。


とにかく、私は掘り続けるのだ。
掘り続け、掘り続け、その先には一体何があるのだろうか。
そんな素朴な疑問を全て沸きに置いておき、私は掘り続ける。
ただひたすらに。


戦争について、
人間の歴史は、争いの記録といっても過言ではない。

ソ連が崩壊し、それまでの異なる政治イデオロギー勢力同士の対立構図は崩れ去った。
それまでは戦争の原因は、社会主義国家群と民主主義国家を標榜する国家群との縄張り争いのようなものであった。いや、ソ連とアメリカの対立構図であったと言うのが最も正確なのかもしれない。
ある意味、至極単純明快であったように見える。

第二次大戦前のヴェルサイユ体制においては、収奪の対象となる植民地を巡る争いも、第二次大戦の一因となっている事に注目すべき点がある。
第二次大戦は、いわゆる植民地を持つものと持たざるもの同士の利権の奪い合いであった。
歴史の教科書に良く出る、ドイツは悪い、日本は悪い、というのは、歴史的に見れば誤りである。究極的な悪と言うのは、一般的に存在しない。
あえていうなれば、人間は悪だ、というのが最も正しいといえる。

人の性が、利権の奪い合いを起こすものであるという事が正しいと仮定するならば、戦争とは利権の奪い合いという戦いの中での手段の一つであることが言える。
もちろん、その戦いには戦争以外の手段もあるが、究極的に相手から物を奪うという行為の背後には、歴然とした武力の裏づけが必要である。
よって、仮定条件が正しいとすると、戦争は各種団体における利益の奪い合いの一面が見え隠れする。

しかしながら、戦争は非常にリスキーである。
勝てば良いが、負けた場合は勝者にいいようにされてしまう。
堅実な人間であれば、まずは避けるべき事態であるという認識は当然だ。

例を上げると、
自分の正面に、自分の財布をねらう人間がおり、自分も相手もナイフを持っていると仮定しよう。
相手はナイフで威嚇しながら財布をよこせと言っている。
では、自分はそのときにどうすべきか?
1.おとなしく財布を渡す。
2.自分の持っているナイフを誇示し、相手の行為がリスキーであることをわからせる。
3.果敢に自分のナイフを相手に突き立てる。
4.逃げて助けを求める。
などが考えられる。

もちろん、私としては自分の命が大事なので、逃げて助けを求めるのを選ぶだろう。
もし、自分に格闘の技術があり、相手を確実に仕留める事が出来るなら、2番や3番の選択もありえるだろう。
しかしながら、自分の命を懸けてまで財布を守らないといけないのか?といわれると、たとえ95%の確率で相手を圧倒できるとわかっていても、Noと言ってしまうのが普通だ。


何が言いたいかというと、まあ人間は普通戦争は避けるように出来ているということだ。
だがしかし、それでも戦争が起こってしまうのは何故だろうか?
それは命を懸けてまでも欲しいと思う利権がある場合だろう。
そして、その命を懸けるのは戦争を起こす当事者ではなく、他人なのでお構い無しの場合であるだろう。

ということが正しいならば、人間は利権のために命を懸けて戦争をする、ということは正しい。
個としての人間は善良なれど、集団としてみた人間は凶暴であるというのは、こう言った理由に違いない。


じゃあ全ての人が幸せになるにはどうすべきか?
おそらくそれの答えはないだろう。
そしてそれが人間の限界であるといえる。
お釈迦様の言う、すべての煩悩を捨て解脱せよ、というのは、万人には難しいものである。


と、秋の夜長にふと思った。



貨物船「そよかぜ3号」
せっせと鉱石を掘り続け、私はようやくちょっぴり大きめの船を買うことが出来るようになった。
そう、それは貨物船だ。

宇宙を、荷物を運びつつ旅をする。
そう、現代で言うところのトラック野郎だ。

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運ぶのは、禁制の品でも何でもござれ。
アウトローギリギリの堅気野郎。
それが貨物船乗りたる所以である。


実際は掘った鉱石しか運ばないが…

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